作品調査25
これまでエイレットとサイモン・テイラーに焦点を当てて、各施設の収蔵作品を閲覧してきました。
両者はイギリスで活躍した18世紀の作家で、親子ほどの年齢差があります。(Georg D. Ehret 1708-1770、Simon Taylor 1742 -1796)
互いに面識があり同じ年代のヴェラム作品を多く残していますが、画風が異なるため面白い比較対象と感じ選択しました。
しかしながらエイレットの圧倒的な知名度に対して、現代ではテイラーの名前はほとんど知られていません。関連する文献には、テイラーの作品はエイレットの優美さに到達できなかったという見解や、植物学者に技法が好まれなかったのではないかという見解が見られます。
そこで同じ種類の植物を描写した作品部分を並べてみました。
上の画像がエイレット、下がテイラーです。
上) Capparis The caper bufh (部分)
George D. Ehret
1764
©︎ The Board of Trustees of the Royal Botanic Gardens, Kew
下) Capparis spinosa (部分)
Simon Taylor
1760年代
©︎ The Board of Trustees of the Royal Botanic Gardens, Kew
エイレットの作品は装飾的かつ優美な構図であるのに対し、テイラーの作品は写実的で透明感があり正確です。この作風の差が人気の差に関係しているとも言えます。
ケッパー (Capparis spinosa) は葉柄に2つの刺を持つ特徴がありますが、エイレットの作品では描写さていません。正確さにおいてはテイラーは植物を忠実に描写しています。
さらに技術面においても、美術学校で最優秀の成績を残したテイラーが劣っているとは考えづらいため、彼が歴史に名を残さなかったのには、少なからず時代背景が影響しているのではないかと考えています。
そこで、当時の時代背景について整理してみたいと思います。
花自体が大変高価であった18世紀中頃、貴族にとって自前の庭園で育てさせた珍しい園芸種やエキゾチックな外来種を記録した絵画は、権力を誇示するための格好のアイテムでした。バラやチューリップが好まれたように、正確さよりも装飾的で華やかな作品に需要がありました。自慢の花々を優美に、実際よりもほんの少し誇張して描いてくれるエイレットのような画家が好まれたことが納得できます。
このような時代に若きテイラーが従事したのは、当時キュー植物園を監督していたビュート卿のもと、園内の何千もの種を記録するという気の遠くなるような仕事でした。彼はセイタカアワダチソウやカスミソウのような、いわば目立たない在来種をひたすら正確に描写しています。作品からはテイラー自身が小さな花や野草を好んでいたように感じられますが、華やかとは言えない彼の画風は、前述のような貴族には支持されずらかったことでしょう。
それでも学術的な傾向を強めて行った当時の植物画の背景を考えれば、若年期に描かれた ’Plants by Taylor’ の15巻は彼の誇るべき代表作であったはずです。しかしこの豪奢な革製の本は、ビュート卿の死後すぐにバラバラに分解されてオークションで売却されています。
そもそもビュート卿とは時の国王に深く関わりイギリスの首相にまで登りつめた政治家です。テイラー以外にもジョン・ミラーやエイレットに植物図版を制作させ当時大きな影響力を誇りました。しかし著しい不人気のため首相の座を降り、その後国王の後ろ盾も失って、監督していたキュー植物園も追われています。ほんの10年ほどの間に政治的立場に浮き沈みが見られる不安定な人物と言わざるを得ません。
その後キュー植物園が正式に国の施設となり、ジョセフ・バンクスが運営を任されるようになると、より学術的な作品が植物画の主流となりました。植物学と美術の双方に秀でた新たな世代の画家がバンクスに雇われ、黄金期と呼ばれる時代が幕を開けます。しかしテイラーは当時ビュート卿に雇われていたために、新たな主流に加わる事ができなかったのではないでしょうか。産業革命と重なるこの時期を堺に、権力のシンボルであったヴェラムも植物画にほとんど用いられなくなりました。
テイラーは植物画の歴史の節目に生き、実力がありながら不安定なパトロンに運命を左右された人物であったと捉えています。
一方エイレットは新たな時代の幕開けと共に生涯を終えています。自ら各国を歩き回って植物画の道を開き、生涯をかけて大変精力的に制作に取り組んだことが知られています。学名やサインまでもが唐草紋様のように装飾的で特徴があり、積極性と主張の強さが感じられます。
その点テイラーは控えめな人物とでもいいましょうか、サインを記さない作品群からは、パトロンの指示に従う受動的な姿勢が感じられます。
両者の異なる描画姿勢は、当然後世の知名度にも影響していることでしょう。正確さと需要の中庸を得ながらも作家としてどうあるべきか、時代を超えて変わらない課題が伺えます。
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